物語から空間は生まれる。


樋口一葉『たけくらべ』が教えてくれたこと


私の仕事の原点には、いつも「感動」があります。それは時に、旅先の風景であったり、一本の映画であったりしますが、言葉そのものから生まれることも少なくありません。先日、本棚の奥から樋口一葉の『たけくらべ』を久しぶりに手に取り、改めてその瑞々しい感性に心を揺さぶられました。

明治の吉原という、華やかさと儚さが同居する街。そこで生きる少年少女の、寄せては返す波のような心の機微。一葉の紡ぐ言葉は、単なる情景描写を超えて、その場の湿度や光の匂い、人々の息づかいまでも鮮やかに描き出します。読んでいるうちに、私の頭の中には、格子戸から漏れる夕暮れの光や、登場人物たちが駆け抜ける路地の湿った土の感触までが、ありありと立ち上がってくるのです。

この体験は、まさに空間デザインの本質そのものだと感じます。 私たちは、単に壁や床、天井といった「モノ」を設計しているのではありません。その空間で繰り広げられるであろう「物語」の舞台を創造しているのです。

かつて、この『たけくらべ』から受けた深い感銘を、そのまま空間として表現したいと強く願ったプロジェクトがありました。奇しくも最初に訪れた場所が竜泉という地で、「たけくらべ」の舞台である、樋口一葉が生まれ育った場所だったのです。そこで、私はクライアントの想いと、作品の持つ情緒的な世界観を重ね合わせ、光と影が繊細に交錯する、どこか懐かしくも凛とした空間を目指したのです。それは、文学作品を建築に翻訳するような、静かで刺激的な試みでした。

素材の一つひとつに物語を込め、動線に時の流れを映し出す。そうして生まれた空間は、ただ美しいだけでなく、訪れる人の記憶にそっと触れるような、情緒的な奥行きを持つようになります。

私たちの仕事は、お客様一人ひとりが胸に秘めている、まだ言葉にならない物語を丁寧にすくい上げ、空間というキャンバスに描き出すことです。それは、小説を読むように、行間にある想いを読み解くことから始まります。 あなただけの物語を、ぜひお聞かせください。そこから、まだ誰も見たことのない、心に残る空間が生まれるはずです。